御霊験
其の昔、神功皇后さまが三韓へ御渡海の折、舟路が不明のため、住吉の三神に祈願され無事目的を達成せられて、御帰還の際、松浦の海浜に 鏡を捧げておいのりされたのが起源とされています。
その後数百年も経って、その社殿さえわからなくなっていたとき、時の領主神田宗次公に、或夜神が夢枕に立たれ「海浜に至り、波の上に宝鏡のあるをとりて祈れ」というお告げをいただき、早速海浜に至れば波間に一つの箱があり、これ開けば正に宝鏡であった。
宗次公はこれ正しく、昔神功皇后が捧げられし宝鏡ならんと、その神威を畏こみ、このことを時の帝孝謙天皇に奏聞せられたところ朝廷におかれてはその神威を感じ給い詔命を降して「唐津大明神」と賜ったのであります。
その後幾星霜を経て文治二年その子孫神田広に至り社殿を再建して、祖先宗次公の功を追慕し、その神霊を合祀して二ノ宮としました。
慶長七年寺沢公が築城に際しては領内の守護神として崇敬し、その後大久保、松平、土井、水野、小笠原の各藩主も祈願所と定め、総氏神として崇敬の誠を捧げました。
明治六年郷杜、昭和十七年県社に列格、戦後は宗教法人として今日に至っております。
その後数百年も経って、その社殿さえわからなくなっていたとき、時の領主神田宗次公に、或夜神が夢枕に立たれ「海浜に至り、波の上に宝鏡のあるをとりて祈れ」というお告げをいただき、早速海浜に至れば波間に一つの箱があり、これ開けば正に宝鏡であった。
宗次公はこれ正しく、昔神功皇后が捧げられし宝鏡ならんと、その神威を畏こみ、このことを時の帝孝謙天皇に奏聞せられたところ朝廷におかれてはその神威を感じ給い詔命を降して「唐津大明神」と賜ったのであります。
その後幾星霜を経て文治二年その子孫神田広に至り社殿を再建して、祖先宗次公の功を追慕し、その神霊を合祀して二ノ宮としました。
慶長七年寺沢公が築城に際しては領内の守護神として崇敬し、その後大久保、松平、土井、水野、小笠原の各藩主も祈願所と定め、総氏神として崇敬の誠を捧げました。
明治六年郷杜、昭和十七年県社に列格、戦後は宗教法人として今日に至っております。
御祭神
一ノ宮 住吉三神
- 底筒男命
- 中筒男命
- 表筒男命
- 二ノ宮
- 神田宗次公
- 相殿
- 水波能女神
鎮座地
佐賀県唐津市南城内三番一三号
御例祭
11月3日(唐津くんち)
歴史
- 縁起
- 其の昔、神功皇后、三韓へ渡海に際し道中安全を住吉三神に祈願奉る。帰朝の後、御神徳著しきを感じ松浦の海浜に宝鏡を懸げて三神の霊を祀り給ふ。
- 天平勝宝7年孝謙天皇の御宇・西暦755年
- 時の領主・神田宗次公、一夕神夢を得て海浜に至れば一筺の浮び来る有り。之を探りて開ければ一宝鏡なり。之、正しく皇后の捧げ給ひしものならむと畏みて帝に奏聞す。この年、9月29日「唐津大明神」の神号を賜ふ。
- 文治2年1186年
- 領主・神田廣、社殿を再建し、家祖・神田宗次公の神霊を合祀し二ノ宮とす。
- 文安6年1449年
- 領主・波多三河守親、神田地を寄進し尊崇す。
- 慶長7年1602年
- 初代唐津城主・寺澤志摩守、唐津城築城に際し現在地に社地を定め、社殿を新築し領内の守護神として崇敬せり。且つ城下の火災鎮護として水波能女神を相殿として勧請す。その後、大久保・松平・土井・水野・小笠原の各藩主も祈願所と定め領内の総社として尊崇す。
- 明治6年1873年
- 郷社に列し「唐津神社」と改称す。
- 昭和17年1942年
- 境内拡張・社殿総改築成り、縣社に昇格す。